筆のしずく 別冊 「筆のしずく」の中で、長文のものを記載します。 |
廉塾八景 塾主 菅茶山先生の雅号、肖像画 |
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塾主 菅茶山 天明~文政年間、「当代随一」「詩を以て世に鳴る」と評された漢詩人。 延享5年(1748)2月2日、神辺宿東本陣役、父久助(号 樗平)、母半の長男として生まれた。五人弟妹。父は俳諧に勤しみ、母は国史に通じていた。伯父、高橋愼庵も医を生業とし漢籍に通暁、歌人であった。このような家庭環境に加え、茶山自身、生来病弱であったことから、近所の友だちと野外で遊ぶより、寧ろ、独り静かに読書や詩作に耽ることを好んだ。 明和3年(1766)、19歳の時を最初に、その後断続的に6度京坂に遊学、朱子学・古医法を学んだ。 この頃、福山藩は阿部氏治政下、代々幕閣の要職にあって定府、領民の苦楽は知らず、在府に付随する財源確保のための過酷な賦課に4度に及ぶ一揆が続発。ことの外悪風俗な土地柄、茶山自身も周囲から諭されることもなく遊興生活に明け暮れていた。その最中、ふと自らを顧みて一念発起の修学であったと思われる。 遊学の合間を縫って、在郷中は近隣の童生を集め東本陣(廉塾南西)内の別宅「金粟園」で寺子屋形式の塾を開いていた。 「安永4年(1775)、藤井料助(暮庵)が茶山に入門」。(藤井暮庵行状略記)。これが現存する茶山最初の弟子の入塾記録である。同年、暮庵の父蘭水が記念に寄贈した時鐘の刻字がそれを裏づけている。 安永9年(1781)最後、6回目の遊学後、帰郷、生涯、故郷「神辺宿」に在って、当時頽廃ムードだった故郷を、茶山の謂う「学種」(教育)による世直しを目指し、寛政4年(1792年)私塾「黄葉夕陽村舎」(後の郷塾「廉塾」「神辺学問所」)を開いた。 当初、茶山は「黄葉村舎」と命名したが、その後、柴野栗山の助言で「夕陽」を付け加えた。(濱本鶴濱氏)。「夕陽」については後に葛原しげるの童謡で連想される神辺平野の美しい夕日ではなく、「山西日夕陽 山東日朝陽」の「山の西面」を意味するという説もある。 全国各地から茶山を敬慕、入門した塾生の教育に専心した。特筆すべきは、自らの為人で切り拓いた力強く広範囲に及ぶ全国ネットの人脈、遊学中、交遊した学者のみならず、江戸出府を含む旅行中や廉塾に面会をバックに茶山が唱導した学種は全国各地で次々と後継者を育て、今日に至っている。 幼少時から病身故に健康管理に努め、漢詩人のみならず、儒学者、教育者、社会事業家として、地域社会に貢献、文政10年(1827)8月13日、八十年の生涯を閉じた。 |
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雅号 茶山は「舎背野を隔てて連阜を望む。茶臼山あり。因って自ら茶山と号す。(「茶山先生行状記」賴山陽)が通説になっているが、南宋の詩人陸游の師曾幾の号「茶山居士」に、字 太仲は晋の詩人、左思の字、「太沖(タイチュウ)」に倣ったとする説(児島総合研究所長 児島修)もある。 漢語読みでは「サザン」が正しいが、茶山の号の源、茶臼山から「チャザン」やむなしの見解。森鴎外、富士川英郎、諸橋轍次「大漢和辞典」がチャザン説。一方、香西洋樹佐治天文台長は、1999年、世界で6846番目の小惑星を発見し、茶山と甥の萬年の天文学に関わる業績に感服、その星をkansazanと命名していることから、「サザン」説賛成派か また、猪口篤志氏(著書「日本漢詩 上」新釈漢文大系45 明治書院 昭和47年)は「サザン」とフリカナをふっている。 |
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肖像画 茶山70歳の様態を描いている。「偉丈夫で顔は四角張って頬骨が出ており、齢を重ねられるにつれ、赤ら顔、白髪で威厳があった。田舎爺のような風貌の人だった。」茶山が好んだ柳の木をバックに羽織袴姿で正座している。その座像の一部分をクローズアップ、右上に柳の小枝が覘いている画が一番よく使われている。画人は不明。松前藩家老蠣崎波響の賛がある。 「近世名家肖像図巻」には同時代の著名な文人四十六人として茶山の肖像が掲載されている。谷文晁(松平定信家臣)作といわれる。茶山57歳は帰国を前に、文化元年7月18日、柴野栗山の楼を借りて、詩宴を開いている。招待客の一人にその谷文晁がいる。この日、「対嶽楼宴集当日真景図」では、茶山を含め参加者全員を中国の文人に摸して描いている。 二人の交遊関係はかなり親密であると思われる。ただ、図巻の肖像の製作年代は不明。 |
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『近世名家肖像』より(ウイキペディアからコピー) |
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四角張った額の広い顔に、頭髪は黒く、眉も太い、うっすら生えた口髭と顎髭の間の意思の強そうな両唇の合間から歯を覗かせている。無愛想な農夫のような印象を受ける。 因みに、富士川英郎は、茶山の風貌を「方面赭ら顔の超大漢。質素な綿布を着て、頭髪を異様に束ねたその風軆はひとに牛医馬儈の徒(馬喰)と間違えられかねぬ」(「師談録」(土生玄碩談 水野善慶筆録))と要約している。 文政8年(1825)3月7日、蠣崎波響が江戸感応寺の観花会で、田内月堂が披露した茶山の肖像画を弟子高橋波藍に描き写させたものがある。正面左側からの座像、白い羽織を羽織っている。原画どおりに波響が賛を書き添えている。 茶山80歳の記念に纏められた「福山藩儒等詩画帳」(倉井雪舫画)の巻頭を飾っている画がある。正面右側から、右脇に太刀を置いている。70代の「威(厳)が和らぎ、「田舎の翁」そのものの風貌に変わっている。」評。 |
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廉塾ならびに菅茶山旧宅(国特別史跡指定 昭和28年) 今もなお茶山存世中の原風景がそのまま残されている。 文化3年(1807)年6月17日、伊澤蘭軒が長崎奉行曲渕和泉守景露の随員として西下中、茶山を訪ね、紀行文に廉塾とその周辺の様子を次のように詳しく描写している。 「茶山の廬駅に面して柴門あり、門に入りて数歩流渠あり、圯橋(土橋)を架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋(講堂)瀟洒、夕陽黄葉村舎の横額あり、堂上(座敷)より望むときは駅を隔て黄葉山園中に来るがことし。園を渉て屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川(高屋川)あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士に求む。即此川なり。屋傍に池あり。荷花(睡蓮)盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮という。学生十数人案(机)に対して書を読む。(「伊澤蘭軒」森鴎外) |
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蠣崎波響画-旧相馬邸所蔵- |
現在の廉塾 |
また、絵図としては、賴山陽の「東方漫遊録―夕陽黄葉村舎図」、(寛政9年(1797)、蠣﨑波響画・岡本花亭賛「廉塾図」(画は文政3年(1820)前)などが良く知られている。 広島県歴史博物館主催平成24年度夏の『企画展』では、上述の「廉塾図」蠣崎波響画・岡本花亭賛・1811(文政4)年-旧相馬邸所蔵-が北海道以外では初公開された。 波響が廉塾を訪れずして描き上げたとされる作品にも拘らず、花亭が「十年前の最初で最後の廉塾訪問」を回想、詩文の一連に「忽入新図見宛然(そっくり)」と驚嘆の意を表す賛をしている。 |